生きていること自体が恥ずかしいという感覚は中学生くらいの時からあって、それは今でもずっと変わっていません。
なんだろうな、◯◯をしてしまったから恥ずかしいとか、そういう具体的なものがあるわけじゃないんだよね。
人間多分誰しも恥ずかしい部分があって、別に生き方を変えたいわけでもなく、多分ずっと付き纏うものなんだと思う…
高校生の頃に太宰治の小説をけっこうな数読んだけれども、一番共感できたのが「恥の多い人生送ってきました。」っていうかの有名なフレーズだった。
人間失格を読んで、よかった、生きていることが恥ずかしいと感じている人は他にもいたんだと無駄に安心したのを覚えてる。
何がこんなに恥ずかしいんだろうな。
非力なことかな。
別に対して頭がいいわけでもなくて、理屈こねるだけで、いてもいなくてもいいのに一丁前に誰かを傷つけることもあって、同時に自分が傷つくこともあって、何やってんだろうなあとしょっちゅう思うからかもしれない。
でも別になんでしょうね、それを誰かに慰めて欲しいとか、死にたいとか思ったことは(多分)ないんですよ。
悲観的になりたいだけのしょうもない感傷なのかもしれないと思いつつ、人間が100人集まれば20パーセントくらいは落ちこぼれになることはわかっていて、それも社会のシステムの一部だと思っているので、自分が無駄な存在だとは思わないんです。
無駄な存在がいるということは価値ある存在がいるということになるし、価値ある人間ってなんだって話なんですよね。
多分ほとんどの人は、あるところでは価値ある人間で、あるところでは20パーセントの人間なんですよ。だから、1人の人を手に取ってこいつは価値がある、こいつは価値がないなんてラベルを貼れるものじゃない。そもそも価値ある人間はある意味価値がない人間が存在しないと存在しえないので、矛盾してしまう。
そう思っているから、いくら恥ずかしくてもだからここを変えようとか、死のうとかは今のところ思わないんです。
オチはない。